64.悪霊退散
 
 
ジールは、混乱した思いを抱えたまま、遠ざかって行く彼らの姿を悲哀に
 
満ちた眼差しで見送ったが、その後も扉に凭れ掛かったまま動こうとはしな
 
かった。
 
セイントはそんなジールを気遣い、彼の肩を優しく叩いて言った。
 
 
「さて、さて、行ったようじゃな、ジール、おまえも本当は、一緒に行きた
 
かったのじゃろう?…じゃが、まだ、気持ちの整理がつかぬようじゃな?」
 
「いえ、わたしは……神殿に戻らねば、仕事が、」
 
「ジール、神官長としての責務もわかるがの、時には自分の素直な望み
 
を優先させても罰は当たらん、人の世は儚いものじゃて…頭で考えること
 
も戦略や計算には欠かせぬが、いつもかつもそうしておったら本当に大
 
切なものを見失うぞ! まぁ、陛下にしてもおまえにしても、儂から見れば、まだ
 
まだひよっ子の鼻垂れ小僧じゃわ、ハハハハ…」
 
「お爺様、シンラとどう接したらいいのか、彼、いえ彼女を少年だと思い込んで
 
いたんです…わたしは……すぐに態度を変えれるような器用な人間ではありま
 
せん…」
 
「シンラとて、おまえと同じじゃ! 女を隠してはいたが本質はそのままであっ
 
たと思うぞ、男のふりをしておったというよりも…シンラはしなやかで強いお心
 
をお持ちの方じゃ…脅されても、踏まれても相手の足の裏に針を突き刺すくら
 
いの、それこそ元から女子(おなご)とは思えぬ気性だと儂は踏んでいるんじゃ、だから
 
男でないことがわかった後も、あまり変化はないじゃろう…伸びやかで若樹の
 
ような光に満ち満ちた魂の輝きとでもいうのか、魂色を見れば一目瞭然、誰も
 
が惹かれ魅了される…それが見えぬか? 勿論、聖者だということも含めて真
 
実は隠せはせんからの……ジール、おまえもシンラを見習(みなろう)て男らしくせにゃ、
 
あまりウジウジと考え込むでないぞ! 何事も自然体で望むのが一番じゃ、」
 
「シンラを娶ると国王は言ったそうです…シンラは承諾するでしょうか?」
 
「シンラがおとなしく婚姻を受け入れるとは思わぬな…まぁ、愛する心が
 
芽生えれば別じゃが…陛下も苦労するじゃろうな、しかし男は基本的に
 
女に苦労させられるのが好きな動物じゃて、相手が手ごわければ益々
 
燃え上がる、……儂の言葉が理解できんという顔じゃな、それも経験を
 
積まんとわからんじゃろうて、とにかく、シンラのことは案ずるな! 陛下は
 
ご自分ではまだ認めておらぬようじゃが、確かにシンラを愛しおられる、
 
それゆえ相手の心が欲しくなるものじゃ、だからシンラの望まぬことは
 
されぬと思うぞ……」
 
「ならばわたしも安心です…お疲れの所なのにすみません……お爺様、
 
貴重なお話をありがとうございました。」
 
「体を洗い衣服を改めた方がよかろう…はよ、浴室へ…儂は一度自分の
 
部屋へ戻ってからシンラの元へ行くつもりじゃ、今夜は屋敷には帰れんな
 
……
 
セイントは、最後は独り言のようにつぶやくと、扉の横にある縦長の姿見
 
の中へ消えて行った。
 
 
   *** ***
 
 
―――誰もいなくなった緑香の間。
 
どうしようもない孤独に包まれたジールは、途方にくれたまま部屋の中を
 
ぐるりと見渡したが、全てが色褪せて見えた。
 
選び抜かれた最高級の調度品も意味がなく……もう、用無し…自分の存
 
在意義と同じような気がした。
 
シンラを傷つけたこともそうだ……二度と顔を見せるなと言われたまま、
 
まだ許してをもらってもいない。
 
ジールは居た堪れなくなり、重い脚を引きずるようにして扉に向かったが、
 
その時ふと違和感を感じ警戒しながら気配を探った。
 
 
 
 
「…………シ、シンラ?」
 
 
そこには、不自然に宙に浮かんだシンラの姿があった。
 
 
冷静に考えれば、森羅の自分を見る眼差しがいつもと違うこと、それも脅え
 
を含んだものだと気付いたはずだが、この時のジールは、驚くと同時にただ
 
目の前に現れた森羅を自分の腕に抱くことしか念頭になかった。
 
そして、森羅を捉まえようとジールが手を伸ばした瞬間、すり抜けるように逃れ
 
て行き再び手が届きそうになった時点で森羅の体は今度は天井近くまで飛躍
 
しジールから逃げ回っていた。
 
ジールは反射的に自分も呪文を詠唱し、宙に浮かび上がっては我武者羅に後
 
を追いかけ、後もう少しの所でジールの手が森羅の爪先に届くと思った瞬間、
 
悲鳴があがった。
 
 
「ギャアァー!お、お、お化けー!!触るな!!あっちへ行けー!!!」
 
 
その耳をつんざく悲鳴を聞いた瞬間、力を失い体勢を崩したジールは、下
 
へと落ちて行った。
 
 
   *** ***
 
 
「うぅっ!」
 
腰の痛みに思わずうめき声を洩らしたジールを上から覗き込んだ森羅は、
 
ジールに向かって十字架のように交差させた手を振りかざして 、何やら
 
ぶつぶつと言い続けていた。
 
 
「悪霊!!退散!!! 悪魔か何だか知らないけどジールに憑いてる奴、
 
出て行けー!!!……悪魔祓いの言葉なんて知らないし……いや、悪魔が
 
憑依したものとは限らない、……こっちを見るな!!………もしかして単なる
 
化け物かも? もしそうなら言葉なんて通じないかも? いや、目にはまだ感情
 
らしきものが少しは残ってるようだ……あっ、わかった!! おいっ、ジール、
 
あんたはもう殺されてるんだ! その様子じゃ、自分が死んだことに気づいて
 
ないようだけど、そのままじゃ駄目だ、聖職者がゴースト化したなんて醜聞だ
 
ぞ!!!………?」
 
 
ジールは、体を反転させるようにして起き上がると森羅に しっかりと視線を
 
合わせ、怒りを含んだ低い声で一言一言を強調しながら言葉を発した。
 
「…あ・く・りょう?…あ・く・ま・つき?…ば・け・もの?・…ゴース・ト?」
 
「えっ 、ジールだよな…?」
 
「そ・う・で・す!!」
 
「いや、あの、それ、そ、その、殺されたんだよな……?」
 
「殺された? どうしてわたしが殺されなければならないんですか? それに、
 
誰に? どうやって!? ……おまけに悪霊?あなたの言ってる意味がわたし
 
にはまったくわかりません!! 悪霊ーー!?」
 
最後、ジールの声が裏返ったようになっていたので、相当頭にきているんだと
 
思った森羅は、どうやって彼を説得し宥めようかと思いつつ慌てて弁解した。
 
 
 
「いやっ、そ、その殺されたのが何故なのか、誰にやられたのかは知らないけ
 
ど…ジールが悪霊化したと思ったんだ、だからわたしを見ても認識できていな
 
いだろうし、化け物に成り果てた姿だから……、」
 
「悪霊!?化け物!?」
 
「あぅ、…悪霊、化け物って言ったのが気に食わないんだな? でも…他に…
 
ご、ごめん、てっきり、ゴースト、ゴーストも嫌か?……じゃぁ、怨霊、怨霊も
 
バツか?……じゃぁ、…お化け、幽霊……もー、この際何だっていいだろう!
 
とにかくあんまり近くに来ないでくれないか!……そ、その顔で睨むな!!…
 
恐過ぎるから……でも可哀想に……生前はあんなに綺麗な美青年…イケメン
 
の兄ちゃんだったのに……今は…すさまじい化け物…やっ、幽霊か…でも、幽
 
霊になるほどの心残りって何だー?」
 
 
ジールは言葉も何も出ないほど呆気に取られており、うんともすんとも言わず、
 
ただ、眼光が厳しく細められその鋭さも段々と増して行き、強く握り締めた両手
 
の拳と体全体が小刻みに震え出していた。
 
 
しかし、森羅はジールの方をできるだけ見ないようにと顔を背けていたので、
 
彼のそんな様子には全く気づいていなかった。
 
それどころか、返事がないことがジールの戸惑いの深さを表しており、きっと心
 
の中では自分の死を認めたくないという激しい葛藤が繰り広げられているのだ
 
ろう、彼を正しい方向へ導いてやらなければ…と気遣うつもりで先を続けた。
 
 
「あ、もしかしてわたしに謝りに来たのか? タリシャンから聞いたから!ジール
 
が謝罪してたこと…だからもう怒ってないぞ、…違うか?……んー? …何か
 
言い辛いようだな、あっ、…ははぁん…わかった! あれだ!! うん、わかる
 
心残りだよな、そりゃ、……成仏できなかったその気持ちはわかる……で
 
も、あまり執着するのはよくないぞ、早く成仏、この世界では何て言うんだっ
 
け?……あっ、昇天か? とにかく早くあの世に行け! いくらわたしがイケメン
 
嫌いでも、今の化け物、っ、ごめん、幽霊に比べたら生前のジールの方が数倍
 
いい……憐れで悲しくなる、あっ、そうだ! あの世でもきっとジールがやり残し
 
たこと、女性経験くらいなら神様にお願いしたら一発位やらせて貰えるんじゃな
 
いか?! 未練がましく、この世に執着した所で、…ほら、女性は怖がって相手
 
をしてくれないと思うぞ、そんな姿じゃ!!」
 
「…うーっ…、うー、むー、ん……」
 
「その唸り声、止めろー! こ、こわい…そ、そばに来るな!」
 
「……ま、待ちなさい!! さっきから人が黙って聞いていればあることないこと
 
好き勝手な!!…わたしが殺されたー? この世に執着?……それであなた
 
の言う所のわたしが遣り残したこと、未練が……女性との…いっ、……営み、
 
だと? シンラ、あなたは女の子…それもまだ子供のあなたがそんなことを知っ
 
ているだけでも驚きなのに平気で口にする…いえ、たとえ少年であったとしても
 
下品過ぎます!! い、一発だなんて…その挙句に、“早くあの世に行け!?”
 
“あっちへ行け!?” “そばに来るな?”……えー、えー、わかりました、あなた
 
にとってのわたしの存在は、所詮その程度のものだったんですね、(ひと)(しずく)の涙
  
も…無い……わたしはあなたが死ぬかもしれないと思っただけで……あんな
 
に悲しくて、泣けてきたのに……わたしもあなたを傷つけるようなひどいことを
 
言ったかもしれません、そのことは本当に申し訳なく思っております……でも、
 
だからと言ってあんまりです……言っておきますけど、わたしは生きてます!
 
殺された覚えもありません!! あなたには嫌と言うほど神経をずたずたにさ
 
れ、もし今わたしが死んだら間違いなくシンラ、あなたのせい、あなたの暴力的
 
な言動がわたしを死に追いやったんですからね! はぁー、……情けない……
 
こんなにも惨めで……残酷な……仕打ち………はぁー、生まれてこのかた…
 
……初めて………屈辱……虚しい…………………………薄情者…」
 
 
最後の言葉を投げつけるように言いながらジールは、ぶすっとした表情で立ち
 
上がるとソファーの方へ歩いて行き、そこで緊張の糸が切れたかのように力な
 
く腰を下ろし、頭を抱え込んでしまった。
 
 
「おいっ!そんなに拗ねるなよ、わたしは自分がこんな…だから、ジールが
 
死んでも立場上何とも思わなかったというか、泣かなかったんだ…だからわた
 
しが薄情な訳じゃない……それに女だとバレてちゃしょうがないから言うけど、
 
わたしは二十歳の大人だ、だから多少なりとも性に関して知識くらいはある
 
のは当たり前だ! おいっ、ちゃんと聞いてるのか!?」
 
 


 
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